続・終戦の日に
昨日の「英霊の聲」の続きを。
強い潮の香、月の押し照る海上にざわめく人ならぬものの声、半ば月光に透されて佇む一団、飛行服に血染めのマフラーの神霊の姿・・・
この、三島由紀夫が描くところの、海上を彷徨う特攻隊員の霊が天皇に救済を求めるイメージは、別の本でも読んだことがあるな、と記憶をたぐって思い出したのが、別冊宝島シリーズの「映画宝島 怪獣学・入門!」でした。
三島由紀夫と怪獣本を同列に扱うなと言う声も聞こえてきそうですが、「怪獣学・入門!」は表題に似合わない硬派で骨太な評論集で、その巻頭を飾るのが「ゴジラは、なぜ皇居を踏めないか?」という赤坂憲雄氏の論考であり、副題に「三島由紀夫『英霊の聲』と『ゴジラ』が戦後天皇制に突きつけたものとは何か?」とある通り、この小文はゴジラ論というよりむしろ三島由紀夫『英霊の聲』の考察でもあります。
冒頭を紹介すると、1954年の映画「ゴジラ」に三島由紀夫が好意的な評価を与えていたという話を聞いた筆者は「あの三島由紀夫がゴジラなどという大衆映画に共感を示すなんてことが、一体あるものだろうか。半信半疑だった。ところが最近になって、映画『ゴジラ』と三島の小説『英霊の聲』が思いがけず、ある位相にあっては生き別れの双子の兄弟のようによく似ていることに気付いた。」と語ります。
そして評論家の川本三郎氏が『ゴジラ』について語ったエッセイの中で、『ゴジラ』は第二次大戦で南の海に死んでいった兵士たちへの鎮魂歌ではないか、と指摘していたことを紹介したうえで、「『ゴジラ』の基層には、おそらく無意識の構図として、戦争末期に南の海に散っていった若き兵士たちの、ゆき場もなく彷徨する数も知れぬ霊魂の群れと、かつてかれらを南の戦場に送りだし、いま死せる者らの魂鎮めの霊力すら失ってただの人間にかえった、この国の最高祭祀者とが、声もなく、遠く対峙しあう光景が沈められているはずだ。」と考察し、そこに「英霊の聲」の特攻兵士の英霊を重ね合わせます。
南の海に散っていった兵士たちが月の押し照る海上を彷徨いつつ祖国の変貌をじっと見つめている、この光景が、どこか私たちの意識の深層に響くものがあると感じるのは、私だけではないと思います。
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